子育てに関する雑感。一応の締め括り。

2011年6月12日 sodan119 | |

子育ての問題の一環として、親に出来ぬことは子どもに強要するべきではない、という趣旨のことをここにも書いたし、いろいろなところにメルマガとして公表したら、たいへん貴重なご意見を頂戴した。概要を述べると、親が子どもに対して出来るだけのことを家庭教育として授けるのは当然のことだろうし、また、その中には確かに親が出来なかったことがあるにしても、それを子どもに託していくのが、教育の醍醐味ではないのだろうか、というものだった。確かにその通りで、反論の余地はないけれど、僕の子育てに関する意見で、何が言いたかったのかと言うと、特に母子の共依存に関わる問題だったので、母子共依存の、支配される子どもの側のその後の人生の悲惨さについて、それをどう救うのかということに繋がるのだ、と返信したら、彼女曰く、母子の共依存については、よくわかっているつもりであるが、たとえ、共依存関係であれ、それを乗り越えていくのが、子どもの自立だと思うし、そういう子育てでなければならないとの再返信。敢えて反論せずに、「毒になる親」スーザン・フォワード著(講談社+α文庫)と信田さよ子の「共依存・からめとる愛」(朝日新聞出版)の二書を推薦しておいた。

コメントをくださった女性は、子育てに熱心なよいお母さんなのだろう、と思う。母子の共依存における母親は、多くの場合、苛烈な教育?を子どもに課し、子どもが反抗しようものなら、虐待もなんのそのなのである。このような環境下で育った子どもがたやすく母の影響下から自由になれるはずがない。精神をがんじがらめにされているのだから。ところで、僕が言いたいのは、このような苛烈な子育てをする母親とは、非常識で、子どもに愛がなく、思慮分別のない女性なのか?ということである。事実はまるで違う。こういう女性ほど、話をすればとてももの分かりのよいタイプだったりする。だから外からはその実体がなかなか見えないのである。隠蔽された環境下で母と子どもの精神の支配ー被支配が醸成されていく。子どもの方は常に母への愛の不全感に苛まれる。空間的・物理的に後年母から離れても、精神的な支配は、姿かたちを変えて、ずっと子どもを縛り続けることがしばしば起こる。精神的な不調和からなかなか解放されない。この歪んだ絆を断ち切るための方法論は、正直に云うと、誰にも分からないのである。そういう悲劇を抱えた人たちとどう向き合うか。それが、私のいまの大きな課題の一つである。カウンセラーとして、人として。

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子どもの可能性を伸ばそうとするのはいいですが、自分に出来なかったことは基本、強要しないことです。

2011年6月 9日 sodan119 | |

教育熱心なお父さん、お母さんですと、お子さんの可能性を伸ばし広げられるものなら、出来るだけのことはしたい、と思うのが親心です。わかります。例外も多々あるでしょうが、日本の子どもの教育に携わる主体は、殆どがお母さんです。お父さんは仕事で目が外を向いていることが多いので、いきおい子どもの進路選択や、それにまつわるさまざまなことは、お母さんの肩にのしかかってくるのです。お子さんは、答えの出ていない、可能性の固まりのように感じられる存在ですから、お母さんの個性にもよりますが、悲劇的な間違いもしでかします。褒めて育てるという観点を置き忘れ、言葉は悪いですが、奴隷の監督官のような飼育?をやってしまう方々がいます。ともかく100%でなければ満足できない。たとえば、試験の結果が99点であっても、子どもを叱る。あくまで結果は100点でなければダメだという思考回路が出来てしまっているのです。これはいけません。

勿論、そのようなお母さん方にも同情の余地はあります。上記のようなことが起こりやすいのは、お父さんがお仕事が出来るあまりに、子どもの教育も含めて、途中過程をすべて妻であるお母さんに丸投げしてしまうようなご家庭です。しかも結果だけには厳しい口出しをしてきますから、お母さんもどこかでお子さんの教育に対する冷静な視点を失くしていく結果にむすび付いていくのです。あるいは、障壁は 夫だけとは限りません。お姑さんの目もあります。こういうところが、悲劇のはじまりなのです。暖かいはずの愛が、実質的な価値の強要にスリかわってしまいます。しかし、母子の愛情の本質は普遍的なものですから、愛がありながらも、換言すると、愛が深いからこそ、いつの頃からか、愛が支配ー被支配の関係性に変容してしまいます。無論、支配する側はお母さんの方。支配される側は、お子さんの方です。怖いのは、お子さんの側の愛を受けられなかったという不全感が、屈折した感情に変質します。私が最も恐れるのは、愛の不全感ゆえに、お子さんが成人されてからも、いつまでもお母さんから精神的に自立出来ないということです。愛の不全感には、愛の横溢で乗り越えるしかありませんから、素敵なパートナーと巡り合えて、また、そのパートナーも理解ある自立した精神の持ち主であることが必須です。とはいえ、うまくいかないことが多いのです。そういうとき、どうぞカウンセリングにいらしてください。お役に立てると思いますから。

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子育てを楽しむには、いろいろな条件が整っていなければ。

2011年6月 8日 sodan119 | |

日本は少子化の道をひた走っていると言われて久しいですが、やはり社会的状況が安心せず、子どもを生み育てることが、なかなかむずかしいところに立ち至っています。結婚されて、お子さんをこの世に送り出すということは、ご夫婦の愛情なくしては成り立たないことですけれど、当然、経済的基盤が盤石でなければなりません。明日の生活のめども立たないような不安定感を抱えながら、子どもを持つということにはなりにくいでしょう。よほど強い信念でもあれば別でしょうが、普通の感性からすると、お子さんを生み育てるだけの経済的基盤なしに、日本の少子化をくいとどめることなど出来るはずがありません。日本はとりわけ、教育にも関心の深い国民性でもありますから、生活費も勿論ですが、日本の高い教育費を支払えるかどうかという課題は、子どもを持つか否かのかなり大きな要素になっていると思われます。

さて、幸運にもお子さんをお持ちになれる状況が整っていたとして、カウンセラーの立場から云うと、大切なのは、その後の子育ての問題です。ご夫婦関係が何の問題もなく円滑であれば、ご夫婦そろってお子さんの未来を見据えたよい育児ー教育へと発展します。望ましい姿です。しかし、ご夫婦の間に何らかの不調和がありますと、お母さんの方は、お子さんへの思い入れが強くなる傾向があることは否定できません。つまりは、乱暴に云いますと、夫がダメだから、子どもの教育にかけるというわけです。こういうひっくり返った愛情の示し方が常態化していきますと、ご主人は子育ての蚊帳の外。お母さんがひたすら子育てのすべてを一身に引き受けてしまうということになりますから、結果的にはロクなことにはなりません。

子育ての基本は褒めて育てることです。そうすれば子どもは家庭を一歩外に出る場合に襲ってくる恐怖感から解放され、自由闊達な遊びが出来るのです。また勉強にも、伸び伸びと取り組むことが出来るのです。お母さんに心の余裕がないと、ご自身のことは棚に上げて、お子さんに対して完全無比な言動と結果を要求するようになる可能性がとても大きくなります。こうなると、すばらしい成果を出しても、子どもは最も褒めてほしい対象者であるお母さんに、まだまだだというダメだしばかりされることになりかねません。お母さんに褒めてもらいたい一心で、自分を追い込んでいくことになります。このような結果がどのようになるか、予測がつくでしょう。子育てに疑問を感じられたときが、カウンセリングの受け時です。ここにはご夫婦関係や、親戚との関係なども含まれた、お母さんをとりまく人間関係の総合的な改善をどうするのか、という課題がまんせきですし、何よりお母さんとお子さんとの関係性の見直しがなされる大切な場になるのです。言い足りませんがこの続きは、また次の機会に。

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意外に無自覚に悩んでおられる方がいるので。

2011年6月 5日 sodan119 | |

相談内容は、お仕事がうまくいかないというような切り口ではじまることが多いのです。こういうご相談は近頃とみに多くなりました。不況の影響もあり、業績不振もあるのでしょうか、職場の雰囲気が決して和やかではない、という現象が起こりがちです。そういう中でお仕事をされていると、やはり心の繊細な方はだんだんと落ち込んでもきます。

さて、このようなご相談の中で、ご自身の個性的な問題として、語られる方がおられます。大抵の内実は、たとえば、上司から、あるいは同僚から頼まれた仕事が期限までに出来ない。期限を切られるととても重圧に感じてしまい、大きなストレスがかかるというような訴えです。

このようなご相談を受けた場合、私は単なる精神の繊細さという観点から判断しないで、別の角度からクライアントの話を聞いていることが多いのです。それはどういうことか、というと、たとえば、仕事の期限が守れない、重荷に感じるという場合、私の方から質問することがあります。たとえば、その一例ですけれど、お一人暮らしの場合、部屋の掃除とか、整頓などが、極端に出来ないとか、部屋の中が混沌と感じられるくらいに散らかっはいないだろうか、というような質問です。

こういうことが起こっている場合、クライアントの成育歴を詳しく辿ることにしています。たとえば、幼い頃の学校における宿題の提出が出来ていたか、とか、あるいは、習い事をしていた場合、一つの習いごとが長期間続いたことがどれだけあるか、等々です。前記したことがすべて当てはまっている場合、可能性として、成人のADHD(発達障害)の可能性を疑います。発達障害といいましても、このような場合のクライアントは、知的にはむしろ優れた方々が多いので、なかなかご自身でも、精神科や心療内科で診断を受けても、わからないまま悩みを深めている場合が殆どです。もしも、ここに書いてあるようなことに思い当たったら、どうぞカウンセリングにいらしてください。確実にお役に立てると思いますし、クライアントの人生を豊かにするお手伝いが出来ると確信しています。

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人間の関係性は対等平等でないと。

2011年5月31日 sodan119 | |

人と人との関係性などは、それこそ千差万別、いろいろなスタイルがあってよろしいし、当然のことなのですが、やはり大切なことは、互いに認め合っているということが前提条件です。認め合えれば、多少クセの強い個性であっても、それがかえって親密度を増す要因にすらなりますから。

しかし、上記のような関係性に不可欠な要素があります。それは、互いに存在を認め合うというのは、立場として、対等平等であるというのが、必須の要件です。こういう前提があるからこそ、互いの思いやりというものも生まれるのです。この前提が欠落していると、そこにあるのは、力関係だけです。力関係で決定づけられる関係性とは、支配ー被支配というものでしかありません。ご夫婦間においても、恋人どうしにおいても、また、親と子どもにおいて、支配ー被支配という関係性とは、共依存関係を生み出す可能性が強く、とりわけお子さんに対する悪影響の大きさを考えれば、人間関係というのは、絶対に力関係によってつくってはならないと心から思います。

所謂いじめのジャンルはいろいろとありましたね。モラハラ、セクハラ、ドクハラ、アカハラ等々ですけれど、これらは、すべてその根底に、力のある者が、そうでない者を支配しようとする欲求です。支配ー被支配という関係性は、人間社会においては、最も許され難きものです。私たちは、こういうことに対して、もっと鋭敏になってよろしいのです。

当然のことですが、総称していじめと云ってしまいますが、こういう心性には、心の病が潜んでいます。カウンセリングに来られる方は、いじめを受けている側の方が殆どですが、本当にカウンセリングが必要なのは、いじめている側なのです。いじめている側の人は積極的にカウンセリングを受けようとはしませんから、ご夫婦関係、恋人関係、親と子どもとの関係性における不調和は、出来る限り、被害に遭っている方だけではなくて、加害者の側の方と一緒にカウンセリングを受けることをお勧めします。被害者の方が当然苦しいのですが、加害者の側にいる人も、成育歴の中に問題がありますから、これを解決しておく必要があるのです。人が人らしく生きることが出来る社会がよい社会です。カウンセラーは側面からその役割を担っていると自負しています。

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